タイタニックの乾パンが約320万円で落札——「世界一高価なビスケット」
1枚の乾パンに、約320万円。
2015年、英国の競売場で、小麦粉と水だけで焼かれたなんの変哲もないクラッカーが1万5,000ポンド——いまのレートで320万円ほどの値をつけた。出品した競売会社はこれを「世界一高価なビスケット」と銘打っている。なぜそんな値がつくのか。この一枚が、103年前、タイタニックの救命艇に積まれていた非常食だからである。
小麦粉と水だけの保存食
競売台にのぼったのは、手のひらに収まる素朴な乾パンだった。製造元は、ヴィクトリア朝の英国に実在し、いまはなきスピラーズ&ベーカーズ社。船乗りの世界で「ハードタック」と呼ばれる保存食で、小麦粉と水を練って固く焼き締めただけの、味も素っ気もない非常食だ。水分をほとんど含まないため驚くほど日持ちし、保存状態がよければ一世紀を超えても原形をとどめる。
タイタニックの各救命艇には、こうした乾パンを含む救急糧食キットが積まれていた。氷山に接触した船が沈み、1,500人を超える命が失われたあの夜、海へ降ろされた救命艇のいくつかは別の船に拾い上げられて生還する。乾パンも、その艇の一隻とともに生き延びた。
救助に来た船の、新婚客
この一枚が世に残ったのは、ある新婚夫婦のおかげだった。
ジェームズ・フェンウィックとその妻は当時、客船カルパチア号に乗り合わせていた。カルパチアはタイタニックの遭難信号を受けて全速力で現場へ向かい、凍てつく海上で漂う救命艇から約700人の生存者を収容した船である。フェンウィック夫妻は手にしていたカメラで、救助の一部始終を撮影していた。競売側によれば、この写真群はカルパチアによる救助を記録した、他に類を見ないアーカイブだという。
そして夫のジェームズが、救命艇の非常食から乾パンを一枚抜き取り、コダックの写真用封筒に収めて持ち帰った。つまりこの乾パンは、沈没を生き延びた乗客の遺品ではない。救助に向かった船に乗り合わせた客が、あの夜の記念に持ち帰った一枚なのだ。
競売台にのぼった一枚
乾パンが出品されたのは2015年10月24日、英ウィルトシャー州ディヴァイジズ。タイタニック関連品の扱いで知られるヘンリー・オルドリッジ&サンが、フェンウィック家の子孫から預かった写真アーカイブとともに競売にかけた。予想落札価格(エスティメート=主催者が見込む落札額の幅)は8,000〜1万2,000ポンド、約170万〜260万円である。
それでも競売側は強気だった。担当のアンドリュー・オルドリッジは、これは世界一価値あるビスケットであり、現存するタイタニックの救命艇用ビスケットは自分の知るかぎり他にない、と各紙に語っている。結果、競りは1万5,000ポンドで決着した。一枚のクラッカーとしては前代未聞の値である。競売側によれば、それまで最も高かったビスケットは南極探検にまつわる一枚だったが、今回はその記録を大きく上回った。
いま、その乾パンは
落札したのは、ギリシャのある収集家だったと報じられている。買い手は最後まで匿名を通し、競売後の取材で「ギリシャのコレクター」という情報だけが伝わった。その一枚がいまどこにあるのかは、公には知られていない。
オルドリッジは取材に、買い手がかじることはまずないだろう、世界一高くつくひと口になってしまうから、と冗談めかして答えていた。
タイタニックにまつわる品としては、富豪の金時計も、楽団長のバイオリンも市場に出て、いずれも目の眩むような値で取引されてきた。そのなかで、最も安く、最も日持ちのするこの一枚——本来なら誰の記憶にも残らないはずの乾パンが、豪華客船の名とともに一世紀を生き延びている。沈まなかったのは、皮肉にも、いちばん地味なものだった。
- [1] CNBC「'World's most valuable cracker' sells for $23K」(2015年10月) — www.cnbc.com
- [2] PBS NewsHour「Cracker salvaged from sinking Titanic auctioned for $23,000」(2015年11月) — www.pbs.org
- [3] Paul Fraser Collectibles「Titanic silver loving cup sells for $198,000 at Henry Aldridge」(2015年10月) — www.paulfrasercollectibles.com