世界のオークションに流れ着いた品々の物語。
奇妙・珍品

ベートーヴェンの遺髪、3,600ポンドで落札——鉛を暴いた毛髪は別人のものだった

Lock of Beethoven's Hair – the Hiller Lock(ベートーヴェンの遺髪)

1994年12月1日、ロンドンのサザビーズ。小さな黒い楕円の額に収められた一房の灰色がかった毛髪が、競売台に上がった。事前の見積もりは2,000〜3,000ポンド。槌が下りたのは3,600ポンドだった。額の裏には古い証書が貼られ、こう記されていた——この髪は、ベートーヴェンの遺体から、その死の翌日に切り取られたものである、と。

落札したのは古物商リチャード・マクナットだが、彼は代理人にすぎない。実際の買い手は、アメリカ・ベートーヴェン協会に属する4人の愛好家だった。彼らが3,600ポンドに賭けたのは、ただの記念品ではない。一束の髪が、作曲家の身体に何が起きていたのかを語りうる「証拠」だと信じたからである。

死の翌日に、少年が切り取った

髪を切ったのは、フェルディナント・ヒラーという15歳の少年だった。のちにドイツで指揮者・作曲家として名を成す彼は、1827年、師フンメルに連れられて死の床のベートーヴェンを見舞っている。巨匠が3月26日に息を引き取ると、その翌日、ヒラーは形見として一房を切り取った。故人の髪を遺族や崇拝者が切り分けて持ち帰るのは、当時さほど珍しい習慣ではない。

髪はヒラー家に伝わり、息子パウルへと受け継がれた。20世紀に入ると一族の手を離れ、第二次大戦下の1943年、デンマークの医師カイ・アレクサンダー・フレミングのもとへ渡る。ナチスの手を逃れようとするユダヤ人たちを治療した、その謝礼だったと伝えられる。以後この髪はフレミング家にとどまり、1970年代に一度コペンハーゲンのクリスティーズへ持ち込まれたものの、たとえ本物でも値はたいしてつかないと告げられている。表舞台へ戻るのは、それから二十年後のサザビーズだった。

Lock of Beethoven's Hair – the Hiller Lock(ベートーヴェンの遺髪)
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鉛という答え

落札された髪は、サンノゼ州立大学のベートーヴェン研究センターに収められ、科学の手に委ねられた。難聴、慢性的な腹部の不調、肝臓の病——生涯にわたって作曲家を苦しめた不可解な症状の正体を、この髪が教えてくれるかもしれない。

結果は鮮烈だった。毛髪からは、通常ではありえない高濃度の鉛が検出されたのだ。19世紀、鉛は薬にもワインの甘味づけにも使われていた。ベートーヴェンは長く鉛にむしばまれていたのではないか——この仮説は一気に説得力を帯び、作家のラッセル・マーティンによってノンフィクション『ベートーヴェンの遺髪』(2000年)にまとめられ、2005年にはドキュメンタリー映画にもなった。一房の髪が、ひとつの物語の主役になった。

三十年越しの、静かな裏返し

ところが、である。古代のDNAを毛髪から読み取る技術が進むにつれ、研究者たちは肝心の問いに立ち返ることになる。この髪は、本当にベートーヴェンのものなのか。

ケンブリッジ大学のトリスタン・ベッグらは、ベートーヴェンのものとされる8つの毛髪を遺伝子レベルで照合した。2023年に発表された結論は、そのうち5房が同一人物——ほぼ確実にベートーヴェン本人——に由来する、というものだった。彼のゲノムはここから解読され、肝臓病への遺伝的な傾きや、晩年のB型肝炎感染までが浮かび上がっている。

そして、あの髪。1994年に3,600ポンドで競り落とされ、本にも映画にもなったヒラー・ロックは——ベートーヴェンのものではなかった。DNAは、それが一人の女性の髪であることを示していた。今回の研究を立ち上げたウィリアム・メレディスは端的に語っている。ヒラー・ロックが女性のものである以上、それだけに基づく過去の分析は、ベートーヴェンには当てはまらない、と。鉛中毒という有名な結論は、本人ですらない髪から導かれたものだったことになる。

では、鉛はどこへ

皮肉なのは、その結論自体は間違っていなかったことだ。2024年、別の研究チームが、今度は遺伝子で本物と認証された2房——ベルマン・ロックとハルム=セイヤー・ロック——を分析した。すると、やはり基準値の64倍と95倍という極端な鉛が検出され、ヒ素と水銀の痕跡まで見つかった。ベートーヴェンが重い鉛の蓄積を抱えていたことは、こうして本物の髪で裏づけられたのである。ただし研究者は、それが単独で死を招くほどの量ではなかったとも釘を刺している。

正しい結論は、間違った標本から生まれ、三十年を経て、正しい標本に救い出された。

ヒラー・ロックは、いまも研究センターに残されている。本人のものでないと分かってなお、捨てられることはない。あの髪の本当の持ち主が誰だったのか、それは今も分からないままだ。DNAが残したかすかな手がかりは、彼女がアシュケナージ系ユダヤ人の血を引く女性だった可能性を示すばかりである。ナチスから逃れる人々を救った医師の手を経て海を渡った髪は、めぐりめぐって、ひとりの名もなき女性の存在をそっと告げていた。ベートーヴェンを探した三十年の果てに残ったのは、彼女の影だった。

出典 SOURCES
  1. [1] ケンブリッジ大学 プレスリリース(ベートーヴェンのゲノム解析・2023年) — www.cam.ac.uk
  2. [2] Current Biology: Begg et al.「Genomic analyses of hair from Ludwig van Beethoven」(2023年) — www.cell.com
  3. [3] Clinical Chemistry: Rifai et al.「High Lead Levels in 2 Independent and Authenticated Locks of Beethoven's Hair」(2024年) — academic.oup.com
  4. [4] アイラ・F・ブリリアント・ベートーヴェン研究センター(サンノゼ州立大学)ヒラー・ロック認証プロジェクト報告(落札額・来歴) — beethovenscholar.com