世界のオークションに流れ着いた品々の物語。
奇妙・珍品

アルキメデスの失われた論文、祈祷書の下に——220万ドルで落札された写本の千年

Archimedes Palimpsest(アルキメデス・パリンプセスト)

カビに侵され、装丁は崩れかけていた。1998年10月29日、ニューヨークのクリスティーズに出品された中世の祈祷書は、お世辞にも美しい本ではなかった。それでも値は200万ドルまで競り上がった。入札者たちが見ていたのは祈りの文句ではない。その文字の下に薄く透けて見える、二千二百年前の数学だった。

羊皮紙は「上書き」される

この本の正体は、パリンプセスト——一度書かれた文字を削り落とし、別の文章を上書きした再生羊皮紙の写本である。羊皮紙は羊や山羊の皮から作る高価な筆記材で、中世には「読まれなくなった本」を洗い、こすり、白紙に戻して使い回すのが当たり前だった。

下に眠っていたのは、10世紀のコンスタンティノープルで筆写されたアルキメデスの論文集。紀元前3世紀のシラクサで「てこの原理」や円周率の近似に挑んだ、古代最大の数学者の著作である。それが13世紀、修道士の手で文字を消され、174ページの祈祷書に作り替えられた。後年の画像解析プロジェクトによれば、上書きを終えた筆写者の名はヨハネス・ミロナス。1229年4月14日、エルサレムでの作業だったという。天才の証明は、それから七百年近く、祈りの言葉の下に封じられることになる。

Archimedes Palimpsest(アルキメデス・パリンプセスト)
https://ja.wikipedia.org/

1906年、祈りの行間に図形を見た男

最初に気づいたのは聖書学者だった。1840年代、コンスタンティノープルを訪れたコンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフが、この写本から1ページを持ち帰っている(現在もケンブリッジ大学図書館にある)。だが下の文字の正体を突き止めたのは、1906年に現地で実物を調査したデンマークの数学史家ヨハン・ハイベアだ。

ハイベアは消された文字を丹念に読み解き、そこに『方法』——アルキメデスが「どうやって定理を発見したか」を友人に明かした、他に写しが一つも残っていない論文——が含まれていることを発見した。彼の成果は1910年代のアルキメデス全集に結実する。ところがその後まもなく、写本そのものがコンスタンティノープルの図書館から姿を消した。

競売の数時間前まで争われた所有権

写本は長いあいだ、フランスの一家の手元にあった。持ち主はマリー・ルイ・シリエクスという官吏で、どうやって入手したのかを示す記録は残っていない。1957年に彼が亡くなると娘のアンヌ・ゲルサンが引き継ぎ、1991年、クリスティーズのパリのオフィスに内々に鑑定を持ち込んだ。評価額は80万〜120万ドル。そして1998年、ついに競売が告知される。

ここで声を上げたのが、エルサレムに本拠を置くギリシャ正教会の総主教庁だった。「写本は1920年代にコンスタンティノープルの図書館から盗まれたものだ」と主張し、売却差し止めを求めてニューヨークの連邦地裁に駆け込んだのである。だがキンバ・ウッド判事は競売のわずか数時間前、売却を認める判断を下した。翌1999年の判決でも、教会側が半世紀以上にわたり紛失を公表せず、取り戻す努力もしてこなかったことなどを理由に、請求は退けられている。

競売当日、会場にはギリシャ政府も買い戻しを狙って参戦していた。アーケオロジー誌によれば、ニューヨーク駐在のギリシャ総領事は190万ドルまで食い下がり、そこで降りた。ハンマープライスは200万ドル、手数料込みでおよそ220万ドル。日本円にして約3億5,000万円(1USD=160円換算)である。落札したのは、書籍商サイモン・フィンチを代理に立てた匿名のアメリカ人だった。

富豪は、写本を金庫に入れなかった

220万ドルの古文書を手にした富豪が次にやることといえば、金庫にしまい込むか、応接間に飾るか。ところがこの落札者は違った。写本をボルチモアのウォルターズ美術館に預け、自ら資金を出して、保存処理と画像解析の一大プロジェクトを始動させたのだ。

1999年に始まったプロジェクトには、最終的に80人を超える研究者が加わった。紫外線、赤外線、斜光、そしてX線。波長を変えて撮影した画像を重ね合わせると、肉眼では消えていたギリシャ文字と図形が、祈祷書の文字の下から浮かび上がってきた。20世紀に何者かが価値を吊り上げようと描き加えた金箔の聖人画。その下に隠れた文字さえ、X線は読み出した。

『方法』の解読が大きく進んだだけではない。同じく他に写しが残っていない『ストマキオン』——14片のパズルを並べ替えて正方形を作る方法を数え上げる論文——も読めるようになった。ウォルターズ美術館によれば、その答えは17,152通り。現代のコンピュータ科学を支える組合せ論の、知られる限り最古の論文である。さらに写本には、アルキメデス以外にも消された本が6冊分も綴じ込まれていたことがわかった。

そして所有者は、画像と翻刻の一切をウェブで無償公開した。誰でも、いつでも、古代の数学者の思考を覗けるように。

失われた1ページは、フランスにいた

物語はまだ終わっていない。ハイベアが撮影した写真と照らすと、写本からは3枚のページが失われていた。その1枚が2026年、思いがけない場所から見つかる。フランス中部ブロワの美術館の収蔵庫である。スミソニアン誌の報道によれば、研究者が「ここにもパリンプセストがあるのでは」と半ば思いつきで調べたところ、『球と円柱について』の一節を含むページが、1906年の写真とぴたりと一致した。

写本の所有者は、四半世紀あまりを経た今も匿名のままだ。名を残すことには興味がなかったらしい。220万ドルで買えたのは、カビの生えた羊皮紙の束にすぎない。その下に眠っていた数学は、いまや誰のものでもなく、全員のものになった。

出典 SOURCES
  1. [1] The Washington Post「Eureka!: Archimedes Text Fetches $2.2 Million」(1998年10月30日) — www.washingtonpost.com
  2. [2] The Archimedes Palimpsest Project(公式サイト)「The History of the Archimedes Manuscript」 — www.archimedespalimpsest.org
  3. [3] Archaeology Magazine「Archimedes Manuscript Sold」(1999年1月) — archive.archaeology.org
  4. [4] ウォルターズ美術館「Lost and Found: The Secrets of Archimedes」展プレスリリース — thewalters.org
  5. [5] Smithsonian Magazine「Historians Discover a Long-Lost Page From the Archimedes Palimpsest」(2026年3月) — www.smithsonianmag.com