世界のオークションに流れ着いた品々の物語。
奇妙・珍品

アインシュタインがチップ代わりに残した一行、95年後に2.5億円で落札

アインシュタイン直筆「幸福のメモ」(帝国ホテル便箋)

1922年、東京・帝国ホテルの一室で、アルベルト・アインシュタインは手元の便箋にドイツ語で一文を走り書きした。チップの持ち合わせがなかったので、配達に来た男にそれを渡す。「いつか、ふつうのチップよりずっと価値が出るかもしれない」。その紙きれは95年後、エルサレムの競売で156万ドル——日本円にして約2億5,000万円で落札された。

予想は最大8,000ドル、それが156万ドルに

2017年10月24日、エルサレムの競売商ウィナーズに、縦21センチ・横13センチの帝国ホテルの便箋が出品された。事前の予想落札価格は5,000〜8,000ドル。

競りは2,000ドルから静かに始まり、すぐに様子が変わった。電話越しの2人が一歩も引かず、値はみるみる跳ね上がる。25分後にハンマーが鳴ったとき、額は156万ドル——予想の上限の200倍近くに達していた(手数料込み)。会場は拍手に包まれたという。落札したのは、名を明かさない欧州の人物だった。

これは、イスラエルで競売にかけられた文書としては史上最高額だった。競売商の広報担当メニ・ハダッドは、記録ずくめのセールを「すごいとしか言いようがなかった」と振り返っている。同じ日、アインシュタインが続けて書いたもう一枚のメモ——「意志あるところに道は開ける」——も出品され、こちらは24万ドル(約3,800万円)で別の匿名の買い手に渡った。

アインシュタイン直筆「幸福のメモ」(帝国ホテル便箋)
https://www.afpbb.com/

ノーベル賞の知らせと、東京の夜

そもそも、なぜ世界一有名な物理学者の走り書きが日本に残っていたのか。

1922年の秋、アインシュタインは講演旅行のため日本へ向かっていた。その船上で、前年の1921年のノーベル物理学賞に決まったという報せを受け取る。授賞式のあるストックホルムには向かわず、予定どおり極東を目指した。来日した彼を、ひと目見ようと数千人が出迎えたと伝わる。すでに科学の枠を超えた有名人だった。

滞在先は帝国ホテル。ある夜、部屋に配達人がやってきた。チップを渡そうとしたが小銭がなかった——あるいは当時の習慣で配達人が受け取りを固辞したとも報じられている。手ぶらで帰すのも忍びなかったのだろう。アインシュタインはホテルの便箋を引き寄せ、ドイツ語でこう書いた。

「静かで質素な生活は、絶え間ない不安に縛られた成功の追求よりも多くの喜びをもたらす」

そして、自分の名声がいま上り坂にあることを思ったのか、配達人にこう言い添えた。運がよければ、この紙はチップよりも価値が出るかもしれない、と。その何気ない予言は、95年かけて文字どおり的中する。

なぜ「ただの一行」に2.5億円なのか

科学の目で見れば、このメモにたいした価値はない。相対性理論の数式でも未発表の発見でもなく、誰にでも書けそうな処世訓が一行きりだ。

それでも値が跳ねたのは、紙そのものよりも、紙にまつわる物語のためだろう。ハダッドは落札後、価格の理由をこう読み解いている。チップにまつわる逸話が人の心を打つこと、そしてアインシュタインが没後も世界的なスターであり続けていること。買い手が手にしたのは、幸福についての一文というより、「あのアインシュタインが東京で残した、その場かぎりの一瞬」だったのかもしれない。

皮肉も効いている。静かで質素な生活を称えたこの一文を書いた本人の人生は、お世辞にも静かでも質素でもなかった。ドイツからの亡命、戦争の時代、有名であり続けることの重圧——むしろ「絶え間ない不安を伴う成功の追求」のほうに、彼自身はずっと近かった。だからこそ、この走り書きは戒めのようにも、見果てぬ理想のようにも読める。

その後、メモはどこへ

出品したのは、メモを受け取った配達人の親族だとされる。報道によれば、配達人の兄弟の孫にあたる、ドイツ在住の人物らしい。一族のあいだで95年ひそかに受け継がれてきた紙きれが、ある日、桁外れの値札をつけられたことになる。

ただ、買い手も売り手も名前を明かさなかった。だから、このメモがいまどこの壁に、あるいはどこの金庫に収まっているのかは分からない。アインシュタインの草稿や書簡の大半は、彼が創設に関わったエルサレムのヘブライ大学に遺されているが、東京で生まれたこの一枚はそこには加わらなかった。

幸福とは何かを一行で説いた紙は、いままた、誰の目にも触れない場所で静かに眠っている。なんとなく、それが似合っているような気もする。

出典 SOURCES
  1. [1] AFPBB News(AFP通信、2017年10月25日) — www.afpbb.com
  2. [2] NPR(2017年10月25日) — www.npr.org
  3. [3] 日本経済新聞(2017年10月25日) — www.nikkei.com
  4. [4] NBC News(2017年10月) — www.nbcnews.com