サルバトール・ムンディ——45ポンドの絵が720億円で落札され、姿を消すまで
2017年11月15日の夜、ニューヨークのクリスティーズで、1枚の小さなキリスト像に4億5,031万ドル——いまのレートで約720億円——の値がついた。レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる『サルバトール・ムンディ(救世主)』。美術品がオークションで記録した、史上最高額である。落札の瞬間まではよくある美術界の祝祭だった。妙なのはそのあとで、この「世界一高い絵」を公の場で見た者は、いまも一人もいない。
4億ドルから、まだ上がった
クリスティーズは強気だった。事前の見積もりは「1億ドル前後」。それでも応札は出だしの7,000万ドルから二分で2億ドルに達し、会場からどよめきが起きる。競りは終盤、電話の向こうの二人の客に絞られていった。2億3,000万、2億5,000万、3億……拍手が起きても値は止まらず、3億5,000万を超えてなお上がり続ける。19分後、競売人ユッシ・ピルカネンが木槌を打ち下ろしたのは4億ドル。これがハンマープライス、つまり競り落とした価格である。ここに買い手手数料が加わり、支払総額は4億5,031万ドルになった。
異例だったのは舞台立てだ。約500年前の古典絵画でありながら、クリスティーズはこれを戦後・現代美術の夜のセールに混ぜて出品した。一種の賭けで、それが当たった。2年前にピカソ『アルジェの女たち』が立てた競売記録1億7,940万ドルを倍以上に引き離し、私的取引まで含めた史上最高値とされるデ・クーニング作品の約3億ドルさえ上回った。板に描かれた66センチほどの小品である。切手より少し大きい面積ごとに100万ドル近くが乗った計算になると、英紙は書いた。
45ポンドだった絵
かつてイングランド王チャールズ1世が所有したと伝わるが、その後は長く行方が知れず、1900年ごろにイギリスの収集家クック家のコレクションへ「レオナルドの追随者の作」として収まった。
1958年6月、そのクック・コレクションがロンドンのサザビーズで競売にかけられる。『サルバトール・ムンディ』はダ・ヴィンチの弟子ボルトラッフィオの作と見なされ、出品番号40番、落札額はわずか45ポンドだった。買ったのは「クンツ」という名の人物で、絵はそのままアメリカへ渡り、ニューオーリンズの一家のもとで再び忘れられた。
転機は2005年。アメリカの地方競売に正体不明のまま現れたこの板を、画商ロバート・サイモンらの一団が手数料込みで千ドル余りで競り落とす。修復家ダイアン・モデスティーニが何年もかけて、厚く塗り重ねられた後世の加筆を剥がしていった。傷み、塗り直され、それでも下から現れた筆致を根拠に、専門家たちは「これはレオナルド本人の手によるものだ」と唱えはじめる。2011年、ロンドンのナショナル・ギャラリーで「ダ・ヴィンチ作」として公開されると、絵は一夜にして「個人が持つ最後のレオナルド」になった。
値はそこから跳ねた。2013年、スイスの美術商イヴ・ブヴィエが7,500万〜8,000万ドルで入手し、ほぼ即座にロシアの富豪ドミトリー・ルイボロフレフへ1億2,750万ドルで転売する(この取引はのちに巨額の詐欺訴訟へと発展した)。そのルイボロフレフが手放したのが、2017年のクリスティーズだった。45ポンドから、半世紀あまりで約750万倍。
誰が買ったのか
落札者の名を、クリスティーズは明かさなかった。数日後、ニューヨーク・タイムズが入手文書をもとに、入札者はサウジアラビアの王子バドル・ビン・アブドラだと報じる。美術収集の経歴を持たない人物だが、皇太子ムハンマド・ビン・サルマン(通称MBS)の友人であり協力者だとされた。一方アブダビ側は、同地のルーヴル・アブダビのために文化観光局がこの絵を取得したのだと説明している。代理人を通じ、湾岸の新しい美術館のために、実質的にはMBSが買った。報道を重ねると、おおむねそういう像が結ばれる。バドル王子は翌2018年、サウジの文化大臣に就いた。
キリストを描いた絵が、公にキリスト教礼拝を認めない国の王族の手に渡ったことには、当然ながら視線が集まった。文化的威信のための投資と見る向きもあれば、人権記録から目をそらさせる「アートウォッシュ」だと批判する声もある。
見えない救世主
2017年12月、ルーヴル・アブダビは誇らしげに告知した。「ダ・ヴィンチのサルバトール・ムンディがやってくる」。公開は翌2018年9月18日と決まった。
その日、絵は現れなかった。美術館は理由を告げないまま、公開を無期延期する。翌2019年、パリのルーヴルがレオナルド没後500年の大回顧展を開き、この絵の貸し出しを求めたが、会場にもついに姿を見せなかった。事情には食い違う説がある。ルーヴルの科学調査が「レオナルドの工房の作」と位置づけたことをサウジ側が不服としたという話と、ルーヴルが『モナ・リザ』の隣に並べる案を拒んだからだという話だ。レオナルド本人作と認めるルーヴルの調査本まで刷られながら、結局それは回収された。
以後、絵の居場所は噂でしか語られない。2019年にはMBSの大型ヨット「セレーネ」号に積まれていると報じられ、サウジ北西部アルウラに建設予定の文化拠点に収まるのだという観測も流れた。2024年にはBBCが、ジュネーヴの保税倉庫に保管されているという新たな説を伝えている。確かなのは、2017年の落札以来この絵が一度も公の場に出ていないこと、それだけだ。
加筆と修復をどれだけ剥がしても、何割がレオナルド本人の手によるのかという問いは消えない。工房の関与を重く見る研究者は今もいる。世界一高い絵は、本物かどうかさえ完全には決着しないまま、誰にも見られない場所にある。リヤドに新設される美術館がいつか終の棲家になるという話も出ているが、確証はない。
救世主を描いた絵が、救うべき世界から隠されている。高くなればなるほど、見えなくなる。45ポンドの値札がついていた頃、この絵は誰でも見ることができた。720億円になったいま、目にできるのはおそらく、ごく限られた人間だけだ。
- [1] ARTnews「サルバトール・ムンディ、クリスティーズで4億5,030万ドル落札」 — www.artnews.com
- [2] The Art Newspaper「4億5,000万ドルのサルバトール・ムンディ来歴年表」(2022) — www.theartnewspaper.com
- [3] The Art Newspaper「サルバトール・ムンディはジュネーヴの倉庫にあるらしい」(2024) — www.theartnewspaper.com