ダ・ヴィンチ『レスター手稿』を3,080万ドルで落札——ビル・ゲイツが世界に公開した話
1994年11月11日、ニューヨークのクリスティーズで、72ページの古い手帳に3,080万ドルの値がついた。レオナルド・ダ・ヴィンチが左手で、右から左へ書きつけた科学ノート『レスター手稿』である。落札したのは名を伏せた入札者だった。その正体が、当時まさに世界一の富豪になろうとしていたビル・ゲイツだと分かったのは、競売の翌日のことだ。
一冊の手帳が、史上最高額になる
会場の見積もりを、競りはあっさり追い越した。クリスティーズの事前評価は「1,000万ドル超」。ところが木槌が鳴ったとき、価格はその三倍に届いていた。落札額3,080万2,500ドル、いまのレートで約49億円。絵画でも宝飾品でもなく、紙に綴られた一冊の手帳が、オークション史で「最も高価な書物」になった瞬間だった。
72ページで割れば、1ページあたり7,000万円近くになる。ダ・ヴィンチが水の渦や月の光について書き散らした走り書き一枚の、値段である。
入札者は名乗らなかった。クリスティーズは買い手を「匿名の個人収集家」とだけ発表したが、翌日、地元シアトルの新聞がその正体を突き止める。マイクロソフト会長ビル・ゲイツ、39歳。デジタルの最前線にいた男が、500年前の手書きノートを抱えて帰った。
水について考え続けた一冊
この手帳が綴られたのは1506年から1510年ごろ。ダ・ヴィンチが残した約30冊の科学ノートのうちの一冊で、主題はほぼ一貫して「水」だ。川の流れ、渦、波の砕け方。ついでに月はなぜ光るのか、化石はどうして山の上で見つかるのかといった問いまで、細かな図とともに書き込まれている。文字はすべて鏡文字。左利きの彼が紙にインクをこすらないためだったとも、人に読まれたくなかったためだとも言われる。
「レスター手稿」という名は、18世紀にこれを買い取ったレスター伯トマス・コークに由来する。
裁判費用のために、売りに出された
ゲイツの前の持ち主は、石油王アーマンド・ハマーだった。1980年、ハマーはロンドンの競売で当時の最高額512万ドルでこれを競り落とし、あろうことか自分の名を冠して「ハマー手稿」と呼ばせる。1990年に彼が世を去ると、ノートはUCLAのハマー美術館に遺贈された。
ところが手稿は、ほどなく売却台へ戻ってくる。報道によれば、ハマーの妻フランシスの相続人が「正当な取り分を奪われた」と遺産を相手取り、その法廷費用を賄うために美術館が手放さざるを得なかったのだという。こうして1994年、ダ・ヴィンチのノートは再びクリスティーズに並んだ。競り落としたゲイツがまずしたのは、名前を元に戻すことだった。「ハマー手稿」は、また「レスター手稿」に戻った。
金庫ではなく、スクリーンセーバーへ
この買い物がただの戦利品で終わらなかったのは、ここからだ。
ゲイツは手稿の綴じを解いてばらばらの紙葉に戻し、全ページをスキャンした。デジタル画像にしてしまえば、現物を持たない者でもダ・ヴィンチの筆跡を読める。1997年、ゲイツの会社コービスは、各ページに英訳を重ねて表示できる閲覧ソフト付きのCD-ROM『Leonardo da Vinci』を世に出す。
さらに思い切ったのは、その画像をWindowsに載せたことだ。報道によれば、Windows 95向けの拡張パック「Microsoft Plus!」のテーマの一つとして、手稿のページが壁紙やスクリーンセーバーになった。世界一高価な手帳が、当時のパソコンの待ち受け画面でゆらいでいたわけである。
現物のほうも、金庫には眠らなかった。ゲイツは手稿を各地の展覧会に貸し出してきた。シアトル、シドニー、フィレンツェ、フェニックス。ときおり、どこかの美術館で本物のページが灯る。私蔵されながら、これほど多くの人目に触れた手稿も珍しい。
落札から29年、『レスター手稿』は「オークションで最も高価な手稿」であり続けた。2023年、約1,000年前のヘブライ語聖書がその記録を更新するまで。けれど、ゲイツがこのノートに残した本当の痕跡は、価格表の数字ではないのかもしれない。右から左へ書く左利きの天才が、500年後、同じく左利きのソフトウェア技師に買われ、そのおかげで世界中の画面に映った——その巡り合わせのほうだ。
- [1] The Washington Post「ゲイツ、レオナルド『手稿』の謎の買い手と判明」(1994) — www.washingtonpost.com
- [2] HISTORY「This Day in History: ダ・ヴィンチの手稿、500万ドル超で落札」 — www.history.com
- [3] Wikipedia「Codex Leicester」(落札額$30,802,500・来歴・記録) — en.wikipedia.org
- [4] Softpedia「ゲイツがダ・ヴィンチの手稿をWindowsのスクリーンセーバーにした経緯」 — news.softpedia.com