『市民ケーン』の「ローズバッド」のソリ、約23.6億円——廃棄寸前で救われた映画史の謎
廃棄寸前のスタジオ用地で、ある作業員がそれを差し出した。ここの物はみんな処分するんだ、よかったら持っていけば——。受け取ったのは映画監督のジョー・ダンテ。手渡されたのは、赤く塗られ「ROSEBUD」と記された木のソリだった。映画史に名高い『市民ケーン』の、あの小道具である。それから41年後の2025年、このソリは約23.6億円で競り落とされ、映画記念品としては歴代2位の値をつけた。タダ同然で譲られた一台が、である。
死にゆく富豪が遺した一語
1941年公開のオーソン・ウェルズ『市民ケーン』は、しばしば映画史上の最高傑作と呼ばれる。チャールズ・フォスター・ケイン——実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストを下敷きにした人物——の生涯を、彼の死から逆算してたどる物語だ。冒頭、広大な邸宅でひとり息を引き取るケインが、最後にぽつりと漏らす。「ローズバッド」。記者がその一語の意味を追ってケインの足跡を訪ね歩くが、誰にも正体がつかめないまま終盤を迎える。
答えはラストで明かされる。ケインの遺品が次々と炉へ放り込まれていくなか、一台の古いソリが炎に投じられる。焼き付けられた文字は「ROSEBUD」。少年時代のケインが雪の中で遊んだ、あのソリだった。富も権力も手にした男が最期に呼んだのは、何もかも手に入れる前の、失われた幼年期そのものだったのである。
撮影では、このソリが複数作られたとされる。炉で燃やすクライマックス用には、燃えやすいバルサ材のものが用意されて本番で焼かれた。一方、少年が実際に雪原を滑る場面で使われたのは、丈夫な松材のソリ。現存が確認されているのは三台だけで、ダンテが持っていたのは後者の一台である。全長はおよそ89センチ。滑走部の金具は戦時中の金属供出で外されたとみられる、とヘリテージは説明している。
「いる?」から始まった40年
ダンテがこのソリを手にしたのは1984年。自作『エクスプローラーズ』(1985年公開)を撮っていた頃、かつてRKOピクチャーズがあったスタジオ用地——当時はパラマウントの一画だった——で片づけが進められていた。古い映画の愛好家として知られていたダンテに、作業員のひとりが声をかける。これも処分されるところだが、いるか、と。後にダンテはこう振り返っている。相手がソリの正体を完全に知っていたかは定かでないが、何か思うところはあったのだろう、と。大の『市民ケーン』ファンだったダンテは、一も二もなく受け取った。
コレクター気質ではなかったというダンテは、それを声高に自慢することもなく、40年あまり手元に置いた。むしろ、ひそかに楽しんでいた節がある。報道によれば、自身が手がけた『バーブス』(1989年)や『グレムリン2』(1990年)、テレビシリーズ『Eerie, Indiana』など複数の作品に、このソリをそっと忍ばせていたという。映画史の聖遺物を、自作のイースターエッグにしてしまったわけだ。
真贋の裏づけも取った。出品にあたり、ダンテは木材の放射性炭素年代測定を依頼している。結果は、核実験が始まる前に伐られた木だと示した。『市民ケーン』が撮られた年代と矛盾しない。さらに専門家による顕微鏡での樹種鑑定を加え、松材であることを確かめている。
25万ドルの予想が、二人の競りで消し飛んだ
ソリが競売にかけられたのは2025年7月16日。ヘリテージ・オークションズがダラスで開いた4日間のエンタメ専門セール、その2日目だった。事前の予想額は25万ドルほどだったと伝えられる。ところが蓋を開けると、入札はほぼ二人の競り合いに絞られ、価格は天井を破っていく。報道によれば、ハンマーが落ちたのは1,180万ドル。これに手数料が乗り、落札者が支払う総額は1,475万ドル——日本円にして約23.6億円となった(1USD=160円換算)。事前予想のおよそ59倍である。
この金額が、映画記念品としてどれほどのものか。前年に同じヘリテージで競り落とされた『オズの魔法使い』のルビーの靴が、3,250万ドル(手数料込み)で史上最高額。ローズバッドのソリは、それに次ぐ歴代2位につけた。過去にも、撮影に使われたローズバッドのソリは市場に出ている。1982年にスティーヴン・スピルバーグが6万500ドルで、1996年には匿名の買い手が23万3,000ドルで手に入れた。スピルバーグの一台はいま、アカデミー映画博物館に収まっている。同じ「ローズバッド」でも、四半世紀あまりで値は数十倍に跳ね上がった。
同じセールには、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でハリソン・フォードがふるった鞭(52万5,000ドル)、セシル・B・デミル版『十戒』の石板、『帝国の逆襲』のXウイングなども並んでいた。そうそうたる小道具を抑えて頂点に立ったのが、子ども用の木のソリだった。ヘリテージはこの週のセールを自社史上「最も重要」と位置づけ、エンタメ専門オークションとしては歴代2位の売上になったと発表している。
では、約23.6億円を投じてローズバッドを手に入れたのは誰なのか。落札者の名は明かされていない。電話の向こうで二人の入札者が競り合い、勝者は最後まで姿を見せなかった。このソリがこれからどこへ運ばれ、誰の手元に置かれるのかも、いまのところわからない。
最後の言葉の意味を誰も知らないまま物語が進む——それが『市民ケーン』だった。スクリーンの外でも、その答えである一台は、また新たな謎の中へ、静かに滑り出していった。
- [1] Heritage Auctions プレスリリース(2025年7月16日) — entertainment.ha.com
- [2] CNN(2025年7月) — edition.cnn.com
- [3] The Hollywood Reporter(2025年7月) — www.hollywoodreporter.com
- [4] Wellesnet(ハンマー額の出典) — wellesnet.com