ジェシー・オーエンス金メダル2.3億円落札——なぜタップダンサーの遺品だったのか
2013年12月8日の早朝、カリフォルニア州ラグナニゲルのSCPオークションズで、ひとつのオンライン競売が終わった。落札価格は146万6,574ドル——約2億3,500万円(1USD=160円換算)。オリンピック関連の品として、史上最高額を記録した瞬間だった。競り落とされたのは、1936年ベルリン五輪でジェシー・オーエンスが獲得した金メダル。ただし、出品したのはオーエンスの遺族ではない。タップダンス界の伝説、ビル・「ボージャングルス」・ロビンソンの未亡人の遺産だった。
ヒトラーの祭典を走った男
1936年夏のベルリン。ナチス・ドイツはこの大会を、「アーリア人種の優越」を世界に示す舞台と位置づけていた。その会場で、アラバマ州の小作農の家に生まれた22歳の黒人青年が、100メートル、200メートル、走り幅跳び、4×100メートルリレーの4種目を制する。わずか1週間の出来事だった。
しかし凱旋は、英雄譚のようには進まなかった。オーエンスは後年、帰国しても自分はバスの後方にしか乗れず、住む場所も選べなかったと振り返っている。ヒトラーとの握手に招かれなかった代わりに、ホワイトハウスから握手に招かれることもなかった、と。さらに、メダル獲得直後に欧州での資金集めツアーへの参加を拒んだことで、彼はアマチュア資格を剥奪される。陸上選手としての道は、金メダル4枚と引き換えのように閉ざされた。

タップの王様への贈り物
走って食えなくなったオーエンスは、興行で馬と競走までして日銭を稼いだ。そんな彼に手を差し伸べたのが、ビル・「ボージャングルス」・ロビンソンである。シャーリー・テンプルとの共演映画で一世を風靡した、当代随一のタップダンサーだ。
SCPオークションズによれば、ロビンソンはベルリンから戻ったオーエンスが芸能の世界で仕事を得られるよう力を貸し、オーエンスはその礼として4枚の金メダルのうち1枚を贈ったという。スポーツ専門誌アラウンド・ザ・リングスは、12人編成のビッグバンドのバンドリーダー契約をオーエンスに取り付けたのがロビンソンだったと伝えている。メダルはロビンソンの死後も妻エレイン・プレインズ=ロビンソンの手元に残り、その遺産を相続した一族が2013年、競売に持ち込んだ。SCPオークションズは、オーエンス家がこのメダルを本物と確認したと説明している。
終了36時間前、37万ドル
オークションは2013年11月20日に始まった。終了36時間前の時点で、価格は37万ドル。そこから入札は一気に加速し、計30件の応札の末、12月8日日曜の早朝に146万6,574ドルで決着する。それまでの五輪メモラビリア最高額——1896年の第1回近代五輪でマラソン優勝者に贈られた銀杯の86万5,000ドル——を、およそ1.7倍に塗り替える数字だった。
落札者は当初匿名だったが、ほどなくその名が明らかになる。NHLピッツバーグ・ペンギンズの共同オーナーで、ロサンゼルスの投資家ロン・バークル。AP通信によれば、バークルはウィリアム・フォークナーのノーベル文学賞メダルも所有しており、こうした歴史的な品々を巡回させる教育目的のツアーを計画しているとされた。オーエンスの娘マーリーン・オーエンス・ランキンは落札前の取材に、誰もが見られる博物館のような場所に渡ってほしいと語っていた。売上の一部は、ジェシー・オーエンス財団に寄付されると発表された。
4枚のメダルに、5枚分の来歴
ひとつ、奇妙な事実がある。この2億円のメダルがどの種目のものか、誰にも特定できないのだ。1936年大会の金メダルには種目が刻印されておらず、4枚はまったく同じ見た目をしている。落札の時点でSCPオークションズは、残る3枚の行方は不明だと述べていた。
ところが、メダルはその後、次々と「見つかる」。2017年、ヘリテージ・オークションズが2枚の出品を発表した。同社系の媒体インテリジェント・コレクターによれば、1950年代半ば、宿代に窮したオーエンスはピッツバーグのホテル経営者にメダルで支払いを済ませ、経営者が質入れしたそれを、金を貸していた便利屋が質札ごと引き取った——出品したのはその便利屋の息子だという。「金メダルが4枚あっても、それを食べることはできない」とオーエンスが語ったと伝えられている。さらに2019年には、ベルリンで親交を結んだ重量挙げ選手ジョン・ターパクに贈られたとされる1枚が、ゴールディン・オークションズで61万5,000ドルで落札された。
ロビンソンに1枚、ホテルに3枚なら、ターパクの1枚はどこから来たのか。メダルは4枚しかないはずなのに、語られる来歴は5枚分ある。NBCスポーツは、オーエンス自身が生前、メダルはすべてなくしたと語っていたと伝えており、ドイツ政府が贈った代替メダルが母校オハイオ州立大学に収められているという。本当の経緯は、1980年に世を去った本人だけが知っている。
「五輪関連で史上最高額」の座は、2019年12月、クーベルタンの五輪復興宣言の直筆原稿(880万6,500ドル)に明け渡した。それでも、この1枚の意味は変わらない。ヒトラーの目の前で4度勝った男が、走ることでは食えなかった時代に、恩人へ手渡したメダル。種目すらわからない金色の円盤に、人々は2億円を積んだのである。
- [1] NBC Sports / OlympicTalk「Jesse Owens' gold medal goes for $1.4 million in auction」(2013年12月) — www.nbcsports.com
- [2] AP通信 / Fox News「Jesse Owens' Olympic gold medal sells for record $1.4 million」(2013年12月) — foxnews.com
- [3] SCP Auctions「Jesse Owens Collection」(経歴・記録更新の発表) — scpauctions.com
- [4] ESPN「Jesse Owens' family auctioning his Presidential Medal of Freedom」(2018年・落札者ロン・バークルを確認) — www.espn.com
- [5] insidethegames「Jesse Owens Olympic gold medal sells for $615,000」(2019年12月・残るメダルの行方) — www.insidethegames.biz