世界のオークションに流れ着いた品々の物語。
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チャーチルの「世界を救った入れ歯」、予想の3倍・約327万円で落札

ウィンストン・チャーチルの上顎部分入れ歯

入れ歯はふつう、欠けた歯並びと不明瞭な発音をきちんと直すために作られる。ところがウィンストン・チャーチルのために作られたこの上顎の部分入れ歯は、逆だった。本人の生まれつきの舌足らずを、わざと残すよう設計されていたのだ。2010年、その一組が英ノーフォークのオークションに出て、予想の3倍を超える1万5,200ポンド——いまのレートで約327万円で落札された。のちに「世界を救った入れ歯」とも呼ばれることになる一組である。

直すためではなく、直さないための入れ歯

チャーチルは子どものころから舌足らずで、とりわけ「S」の音が苦手だった。ふつうの歯科医なら矯正したくなるところだが、本人はその癖を手放したくなかった。ラジオ越しに国民を鼓舞したあの独特の、ややくぐもった話しぶりは、すでに彼の代名詞になっていたからだ。

王立外科医師会が運営するロンドンのハンテリアン博物館で教育部門を率いるジェーン・ヒューズによれば、入れ歯は上顎にぴたりと密着しないよう、わざとそう作られていたという。同博物館はチャーチルの入れ歯のレプリカを所蔵し、こんなキャプションを添えている——「世界を救った入れ歯」。演説が戦意を支えたのなら、その演説を支えたのはこの一組だ、という理屈である。

作ったのは、召集令状をチャーチルに破られた職人

入れ歯を手がけたのは、歯科技工士のデレク・カドリップ。チャーチルの主治医だった歯科医ウィルフレッド・フィッシュのもとで腕をふるった職人だ。開戦のころ、チャーチルが65歳前後だった時期に、彼は同じ仕様の入れ歯を三組こしらえた(四組とする説もある)。チャーチルは失くすことを極度に恐れ、常に二組を持ち歩いていたという。

この入れ歯、とにかくよく壊れた。BBCなどの報道で息子のナイジェル・カドリップが語ったところによれば、チャーチルは機嫌が悪いと強く噛みしめ、親指ではじいて部屋の向こうへ飛ばす癖があった。父は、ウィンストンが入れ歯をどれだけ遠くへ放り投げたかで戦況がわかると言っていた——そうナイジェルは振り返る。飛距離が伸びるほど、戦局は芳しくなかったらしい。

壊れるたびに、カドリップはダウニング街へ呼び出された。彼の仕事をチャーチルがどれほど重んじていたかは、徴兵の一件によく表れている。カドリップに召集令状が届いたとき、チャーチルはそれを自分の手で破り捨てた。前線へ送るより、ロンドンで入れ歯を直してもらうほうが戦争の役に立つ——そう言い放ったという。主治医のフィッシュにいたっては、その腕を買われ、チャーチルからナイトの叙勲に推薦されている。

上限5,000ポンドの見込みが、競売で一気に

その三組のうちの一組を、息子のナイジェルが手放すと決めた。舞台は2010年7月29日、イングランド東部ノーフォーク州エールシャムの競売会社キーズ。上限でも5,000ポンドほどと見られていた、金を使った小さな部分入れ歯に、当日は予想をはるかに超える札が入り、最終的に1万5,200ポンド——下馬評の3倍を超える値で、ある匿名の入札者の手に渡った。この一組はのちにギネス世界記録(「最も高額な入れ歯」)に認定された。

それから、入れ歯たちはどこへ

落札したのは、グロスターシャーに住むチャーチル・コレクターだった。報道によれば、この人物はチャーチルが終戦を告げた際に使ったとされるマイクなども所有しているという。残る入れ歯の行方も、わかる範囲では追える。一組はチャーチルとともに埋葬されたと言われ、レプリカは前述のハンテリアン博物館に並んでいる。

それから14年後の2024年、また別の一組が今度はイングランド西部チェルトナムの競売に現れ、手数料込みで2万3,000ポンド超で落札された。値はじわじわ上がっている。小さな部分入れ歯は、持ち主が世を去って半世紀以上たったいまも、こうして時おり競売台に現れては値をつけ続けている。

最後にひとつ、どうでもいい疑問が残る。飛距離で戦況がわかったという話が本当なら、戦争が最も苦しかった時期、この入れ歯はいったいどこまで飛んでいたのだろう。

出典 SOURCES
  1. [1] BBC News「Churchill's false teeth sold in Norfolk for £15,200」(2010年7月) — feeds.bbci.co.uk
  2. [2] CNN「Churchill's false teeth sell for $23,000」(2010年7月) — www.cnn.com
  3. [3] Guinness World Records「Most expensive false teeth sold at auction」 — www.guinnessworldrecords.com