アポロ11号の月サンプルバッグ、995ドルが2.9億円に——NASAと争った2年間
2015年2月、アメリカ政府の押収品を扱うオンライン公売で、一枚の白い布袋が995ドル(約16万円・1USD=160円換算)で落札された。買ったのはイリノイ州の弁護士。彼女が鑑定を頼んだ相手のNASAは、袋の正体を確かめるなり、返還を拒んだ。それは1969年、ニール・アームストロングが人類初の月の試料を持ち帰った、アポロ11号のサンプルバッグだった。
中古トラックと同じサイトで
物語の起点は、カンザス州の宇宙博物館コスモスフィアにある。元館長のマックス・アリーが2005年、博物館やNASAの所蔵品を無断で売却していたとして起訴され、のちに有罪判決を受けて2年間服役した(本人は一貫して無実を主張している)。捜査で押収された品々は賠償金に充てるため、連邦保安官局の委託公売に回される。その山の中に、問題の袋があった。
公売を請け負ったテキサスの業者ギャストン&シーハンは、袋を「月の塵を含む」と説明したものの、どのミッションの物かまでは特定しなかった。宇宙史専門メディアcollectSPACEによれば、当初の開始価格は4万2,500ドル(680万円)。2014年に3度出品され、3度とも入札はゼロだった。値は転がり落ち、2015年2月17日、ナンシー・リー・カールソンがわずか995ドルで競り落とす。
報道によれば、袋は在庫管理のミスで後年のミッションの装備と取り違えられ、NASAの所有物であることも、アポロ11号で月へ行った現物であることも、記録から抜け落ちていた。人類で最初に月を歩いた男の袋が、中古トラックや没収ジュエリーと同じ公売サイトで、誰にも見向きされずに売られていたことになる。

鑑定先が返してくれない
カールソンは地質好きのコレクターでもあった。宇宙飛行で使われた袋らしい、という見当はあった。ただ、どのミッションかが分からない。2015年8月、彼女はNASAジョンソン宇宙センターのアポロ試料キュレーターに連絡を取り、鑑定のため袋を送った。
結果は見当の遥か上だった。布地に残っていた微細な塵を分析したところ、組成はアポロ11号の月試料と一致。月面に降りたアームストロングが万一に備えて真っ先に採取した「コンティンジェンシー・サンプル」を地球へ持ち帰る際、外側の汚染防止袋として使われた現物だと判明した。アポロ11号の装備の大半は、スミソニアン博物館に収められている。
NASAは袋を手放さなかった。この遺物は個人が所有するためのものではなく、アメリカ国民のものだ——当時の声明はそう述べている。
ウィチタの法廷で
相手が悪かった、と言うべきかもしれない。カールソンは弁護士である。彼女はテキサスとカンザスの連邦地裁で政府を相手取った訴訟に踏み切った。
2016年12月、カンザス連邦地裁のJ・トーマス・マーテン判事が判断を下す。袋は本来公売にかけられるべき物ではなかった。しかし、適法に行われた売却を取り消す権限は裁判所にない。カールソンは法に則った手続きで購入した「善意の買い主」であり、袋の占有権は彼女にある——。政府は返還を命じられ、2017年2月、NASAはジョンソン宇宙センターで袋を本人に引き渡した。995ドルの買い物から、ほぼ2年が経っていた。
月面着陸から48年目の槌音
2017年7月20日。人類が月に降り立ってからちょうど48年目のその日に、袋はニューヨークのサザビーズに現れた。事前評価額は200万〜400万ドル。結果はハンマープライス150万ドル、手数料込みで181万2,500ドル、現在のレートで約2億9,000万円だった。評価額には届かなかったが、995ドルの「仕入れ値」からすれば1,800倍超。買い主は名を明かしていない。
この売却に拍手だけが送られたわけではない。アポロ着陸地点の保護を訴える団体For All Moonkindは「袋は博物館にあるべきだ」と批判の声明を出した。カールソン自身はCBSの取材に対し、自宅ではもう安全に保管できないと感じたことが売却の理由だと語っている。
塵は塵で、もう一度
NASAが鑑定の際に袋から採取した月の塵は、アルミ製の試料台6個に載せられたまま、NASAの手元に残っていた。カールソンは2019年、鑑定の過程で袋が傷つき価値が下がったとして再びNASAを提訴する。ナショナルジオグラフィックによれば、NASAは和解に応じ、6個のうち5個を彼女に返した。
その塵が2022年4月、今度はボナムスの競売台に載る。NASA自身が本物と確認した、合法的に売買できる唯一のアポロ計画の月試料。評価額80万〜120万ドルに対し、落札価格は手数料込みで50万4,375ドル、約8,070万円だった。袋と塵を合わせれば、995ドルの買い物は約232万ドル、3億7,000万円あまりを生んだ計算になる。
袋そのものの現在の所在は公表されていない。匿名の落札者の手元にあるとみられるが、その後の消息は報じられていない。
マーテン判事は判決の中で、この袋の価値はNASAの技術者たちの目覚ましい偉業そのものから生まれた、という趣旨の言葉を残している。38万キロの彼方から月の塵を持ち帰った組織が、その入れ物を、在庫表の取り違えひとつで失った。2億9,000万円を払った誰かは、おそらくその顛末も込みで買ったのだろう。
- [1] Space.com / collectSPACE「Apollo 11 Moon Rock Bag Belongs to Buyer, Not NASA, Judge Rules」(2016年12月) — www.space.com
- [2] NPR「Moon Dust Bag, Accidentally In Private Hands, Sells For $1.8 Million」(2017年7月20日) — www.npr.org
- [3] collectSPACE「Microscopic Apollo 11 moon dust sells for $500K at Bonhams auction」(2022年4月) — www.collectspace.com