世界に1枚のウータン・クラン盤、200万ドルで落札——買い手は「全米一嫌われた男」
2015年11月25日、オンライン競売会社パドルエイト(Paddle8)が短い発表を出した。ヒップホップグループ、ウータン・クランが世界に1枚だけ制作したアルバム『Once Upon a Time in Shaolin』が、「数百万ドル規模」で売れた——。買い手の名は伏せられていた。
それが明かされたのは翌12月。報道価格はおよそ200万ドル。そして買い手は、よりにもよって、当時メディアに「全米一嫌われた男」と呼ばれていた人物だった。
音楽を「一点物の美術品」にする実験
このアルバムは、最初から普通に売るつもりがなかった。ウータン・クランの中心人物RZAとプロデューサーのシヴァリンズは、約6年をかけて秘密裏に全31曲・128分を録音し、たった1組のCDに収めると、デジタルのマスターファイルを消去した。世界のどこにも複製は存在しない。盤は手彫りの装飾が施されたニッケルシルバーの箱に納められた。
仕掛けの核心は売買契約にある。買い手は2103年——リリースから88年後——まで、このアルバムを商業利用できない。販売も配信も禁止。許されるのは、私的な試聴会で流すことくらいだ。RZAは競売サイトのQ&Aで、ピカソを1枚持つことが複製を売る権利を意味しないのと同じだと説明している。これは「マスター盤」ではなく「一点物の原画」なのだ、と。シヴァリンズに至っては取材に対し、これはファンのためのものではなく、芸術品として闇の中へ消えてほしいという趣旨の言葉まで残した。
デジタル時代に音楽の価値が溶けていくことへの、壮大な抗議。コンセプトは音楽業界を超えて話題を呼び、ニューヨークで一握りのコレクターを集めた試聴会を経て、アルバムはパドルエイトでの売却手続きへと進んだ。
買ったのは「全米一嫌われた男」
マーティン・シュクレリ。製薬会社チューリング・ファーマシューティカルズのCEOだった彼は2015年、エイズ患者らの治療にも使われる抗寄生虫薬「ダラプリム」の製造権を取得するや、1錠13.5ドルだった価格を一夜にして750ドルへ釣り上げた。約55倍。メディアは数日のうちに彼を「全米一嫌われた男(the most hated man in America)」と呼ぶようになり、「ファーマ・ブロ」というあだ名も付いた。
その男が、「複製禁止・世界に1枚」のアルバムを手に入れた。報道が出るとウータン・クランのファンは騒然となったが、話はそこで終わらない。同じ12月、シュクレリは証券詐欺の容疑でFBIに逮捕されるのだ(容疑はアルバムとは無関係の、ヘッジファンド運営をめぐるもの)。
保釈中の彼は、この盤を見せびらかすような言動を繰り返した。報道によれば、盤そのものを破壊する案や、辺境に隠して聴きたい者に「探求の旅」をさせる案を公言してみせたという。世界に1枚の音楽は、嫌われ者の玩具になっていた。
ちなみに2017年にはブルームバーグが、参加ラッパーの一部は「ウータン・クランのアルバムに録音しているとは知らされていなかった」と証言している、という疑義も報じている。一点物の聖典は、その中身さえ謎めいたままだった。
国家に没収されたアルバム
2017年、シュクレリは証券詐欺で有罪評決を受け、翌年に禁錮7年の判決と約740万ドルの資産没収命令が下る。その没収対象に、あのアルバムが含まれていた。盤は2018年、連邦当局の手に渡る。
2021年7月、ニューヨーク東部地区連邦検事局が「没収金の残額に充てるためアルバムを売却した」と発表する。売却額も買い手も非公開。唯一無二の盤は、今度は国家によって、秘密のうちに売られた。
買い手の正体は同年10月に判明する。PleasrDAO——文化的に重要なアイテムを共同購入する、暗号資産ベースの収集集団だ。ニューヨーク・タイムズの報道によれば支払いはドル連動の暗号資産で約400万ドル相当。後の訴訟資料では、2回の支払いで総額475万ドルとされている。さらに2025年7月、ブルームバーグ記者の情報公開請求によって、政府の売却額は223万ドルで、書類上の買い手は香港の法人だったことも明らかになった(PleasrDAOは仲介者を介して購入したと報じられている)。シュクレリが払った200万ドルと大差ない値段で、国は手放していたのである。
タスマニアで初公開、そして再び法廷へ
PleasrDAOは前の持ち主とは逆に、この盤を「開く」方向へ動いた。1ドル払えば5分間だけ音源の一部を聴けるNFTを発売し、1ドルごとに「2103年解禁」のカウントダウンが88秒ずつ縮む、という遊び心のある仕掛けも付けた。2024年6月には豪タスマニア島の美術館MONAへ盤を貸し出し、企画展「Namedropping」の中で実物を展示。無料チケット制の試聴会(1回30分・枚数限定)が開かれ、完成からおよそ10年を経て、一般の人々が初めてこのアルバムの音を耳にした。
ところが、ここで前の持ち主が戻ってくる。2022年に出所したシュクレリが、配信や旧Twitterで「俺はまだmp3を持っている」と公言し、フォロワー数千人に音源を流してみせたのだ。PleasrDAOのメンバーが盤の写真を投稿すると、彼はこう返した——「LOL、こっちはmp3を持ってるんだよ、間抜け」。
PleasrDAOは2024年6月、複製の破棄と損害賠償を求めてシュクレリを提訴した。2025年9月、連邦地裁のパメラ・チェン判事は、一点物として秘匿性が保たれてきたこのアルバムは営業秘密(トレードシークレット)に当たり得るとの異例の判断を示し、審理の続行を認めた。音楽作品が営業秘密として争われるのは前例のない事態で、2026年に入っても係争は続いている。
「複製の存在しない音楽」として生まれたアルバムは、10年後、複製をめぐる裁判の中心にいる。盤そのものは、銀色の箱の中で沈黙したままだ。中身を聴いた人間より、その値段を知っている人間のほうが、いまも圧倒的に多い。
- [1] Complex「Once Upon a Time in Shaolin 全解説」(2021年) — www.complex.com
- [2] Billboard(2024年5月・MONA展示と試聴会) — www.billboard.com
- [3] Digital Music News(2025年9月・営業秘密訴訟の続行決定) — www.digitalmusicnews.com
- [4] Billboard(2025年7月・政府売却額223万ドルの判明) — www.billboard.com