ヒトラーの腕時計が110万ドルで落札——買い手は「欧州のユダヤ人」と競売側は言う
金無垢のリバーシブル式腕時計。裏蓋には「AH」のイニシャルと鉤十字、それを囲むように三つの日付が刻まれている。1889年4月20日——持ち主とされる男の誕生日。1933年1月30日——その男がドイツ首相の座に就いた日。そして同年3月5日——独裁への全権掌握につながった総選挙の日。
アドルフ・ヒトラーの時計、とされる品である。2022年7月28日、米メリーランド州の競売でこの時計に110万ドル——約1億7600万円(1USD=160円換算)の値が付いた。ユダヤ人団体が公開書簡で「冒涜だ」と中止を求めるなかでの落札だった。
山荘から持ち出された戦利品
出品したのは、メリーランド州チェサピーク・シティのアレクサンダー・ヒストリカル・オークションズ。ナチス関連の遺物を扱うことで知られるハウスだ。カタログによれば、時計はミュンヘンの時計商アンドレアス・フーバーの銘が入る特注品で、1933年4月20日、44歳の誕生日を迎えたヒトラーにナチ党の関係者から贈られた可能性が高いという。
来歴の説明はこうだ。ベルリンの地下壕でヒトラーが自殺した4日後の1945年5月4日、約30人のフランス兵部隊が連合軍として最初にバイエルンの山荘「ベルクホーフ」へ到達した。その一員だったロベール・ミニョー軍曹が時計を戦利品として持ち帰り、のちにいとこへ売却。以来、時計はミニョー家にとどまり、公の市場に出ることはなかった——いずれも競売社側の説明である。
ただし、真贋には留保が付く。ハウスは「経験豊富な時計師と軍事史家たちが真正と結論づけた」とうたう一方、英BBCによれば、競売社自身の資料も「ヒトラーが実際に着用した証明はできない」と認めており、独立鑑定人の結論も「十中八九、彼のものだった」という言い回しにとどまる。さらに業界誌WatchProによれば、内部の機械を製造したとされるジャガー・ルクルトは、この時計の真正性を認めないとの声明を出した。
冒涜か、保存か
セールの予告が出ると、欧州ユダヤ人協会(EJA)会長のラビ、メナヘム・マルゴリン氏ら34人のユダヤ人指導者が連名の公開書簡を発表し、ナチス関連ロットの取り下げを求めた。「これらの品々の売却は冒涜である」。学ぶべき正史の遺物なら博物館や研究機関に収まるべきだが、出品物の大半に歴史的価値はほとんどない、と書簡は断じる。それが公開の市場で最高値の入札者へ売られることは「他者の記憶と苦しみと痛みが、金銭的利益のために踏み越えられる、私たちの社会への弾劾だ」と。
実際、セールにはエヴァ・ブラウンのドレスやナチス高官のサイン入り写真に加え、BBCの報道によれば、ホロコーストの時代にユダヤ人へ着用を強制した黄色い「ダビデの星」の布章までが含まれていた。
それでも競売社は退かなかった。社長のビル・パナゴプロスはユダヤ系通信社JTAに「我々が売っているのは犯罪の証拠だ」と反論した。ヒトラーとナチスが実在し、数千万の人々を迫害し殺したことを示す動かぬ物証であり、それを破壊したり隠したりすることこそ「歴史に対する罪」なのだ、と。副社長のミンディ・グリーンスタインも独メディアにこう語っている。「良い歴史も悪い歴史も、保存されなければならない。歴史を破壊すれば、それが起きた証拠が失われる」
euronewsによれば、ドイツやオーストリア、フランスではナチス関連品の売買自体が違法だが、米英にその種の規制はない。パナゴプロスは米紙ワシントン・ポストに、批判が高まるなかで自身と家族に殺害予告が届いたことも明かしている。
予想の半値で落ちたハンマー
2日間にわたるセールの初日、7月28日に時計は競売台へ載った。事前のエスティメート(予想落札価格)は200万〜400万ドル。カタログは「歴史的スケールの第二次大戦の遺物」と謳っていた。
結果は110万ドル。予想下限の半分強にとどまった。それでも円にすれば、1億7000万円を超える。
買い手を知るのは、売った側だけ
落札の2日後、パナゴプロスがワシントン・ポストに語った一言が、新たな見出しになった。時計を買ったのは「欧州のユダヤ人」だ——。名前は明かさなかった。加害の遺物が、被害の側に連なる人物の手に渡ったのだとすれば、この競売をめぐる対立は単純な構図では語れなくなる。だが、競売側の言葉を裏付ける材料は、今日に至るまで出ていない。
それから4年近く。買い手が名乗り出たという報道はなく、博物館へ寄贈されたという発表も、転売の記録も見当たらない。時計の行方は、知られていない。
ヒトラーがこの時計を腕に巻いていたのかどうかさえ、突き詰めれば競売社の調査書類のなかにしか根拠がない。確かなのは、110万ドルを払った誰かがいたということ。そして、その人物について世界が知るすべてが、売った側の一言だけだということだ。
- [1] The Washington Post(2022年7月30日) — www.washingtonpost.com
- [2] UPI(2022年7月30日) — www.upi.com
- [3] The Times of Israel / JTA(2022年8月1日) — www.timesofisrael.com
- [4] WatchPro(2022年7月30日) — www.watchpro.com
- [5] euronews(2022年8月2日) — www.euronews.com