世界のオークションに流れ着いた品々の物語。
悲運の不落札

釈迦の遺宝、競売の槌は下りず——サザビーズ「ピプラーワーの宝石」127年目の帰還

Piprahwa Gems(ピプラーワーの宝石)

2025年5月7日の朝、香港のサザビーズで一つの槌が下りるはずだった。出品されるのは「ピプラーワーの宝石」——釈迦の遺骨とともに祀られたとされる、334点の古代の宝石群である。落札見込みは、日本円にしておよそ20億円とも報じられていた。だが、その槌が振り下ろされることはなかった。開催のわずか数時間前、競売そのものが止まったのだ。

1898年、仏塔の底から現れた石櫃

物語は127年前にさかのぼる。1898年、北インド——ネパール国境にほど近い現ウッタル・プラデーシュ州のピプラーワーで、英国人の植民地地主ウィリアム・クラクストン・ペッペが、自らの地所にあった塚を掘り進めていた。レンガ造りのストゥーパ(仏塔)の底から現れたのは、巨大な石櫃。その中には5つの納骨壺と骨片、そして真珠やルビー、サファイア、アメジスト、文様を打ち出した金の薄片など、合わせて約1,800点もの供物が納められていた。

壺の一つには、古代の銘文が刻まれていた。これは釈迦の遺骨であり、釈迦の一族である釈迦族(シャーキャ)が納めたものである——少なくとも、そう読める文字だった。ただし宝石そのものが納められたのは、釈迦の没後およそ200年を経たマウリヤ朝・アショーカ王の時代(前240〜200年頃)、遺骨が改めて祀り直された際と考えられている。

「重複品」として残された334点

発見当時、インドは英国の統治下にあった。聖遺物の扱いは宗教的にも政治的にも繊細で、ペッペは当時唯一の仏教国の君主だったシャム(現タイ)のラーマ5世に相談している。英国の承認のもと、骨片はシャム王へ贈られ、王はそれをアジア各地の寺院に分けた。供物の大半はコルカタのインド博物館へ移され、インドの法では売却も国外持ち出しも禁じられる「AA」級の文化財に指定される。

一方でペッペには、334点を「重複品」として手元に残すことが許された。それは代を重ねてペッペ家に伝わり、メトロポリタン美術館などで展示されたこともある。そして2025年、曾孫にあたるクリス・ペッペがその334点をサザビーズに託した。彼はCNNに対し、競売こそ宝石を仏教徒のもとへ返す「最も公平で透明な」方法だと語っている。売上の4分の1を仏教関連の機関へ、さらに4分の1をコルカタの本体コレクションの公開費用に充てる計画だったという。競売は1,000万香港ドル(約2億円)から始まり、1億香港ドル(約20億円)前後での落札が見込まれていた、と報じられた。

下りなかった槌

だがこの計画は、世界の仏教界を強く刺激した。ロンドン大学SOASの専門家らは、この競売を「植民地的暴力の継続」と批判した。インド文化省は開催2日前の5月5日、サザビーズとクリス・ペッペに法的通告を送る。宝石は「インドと世界中の仏教徒にとって、譲り渡すことのできない宗教的・文化的遺産」であり、その売却はインドの法律と国際条約、国連の諸条約に反する——そう主張し、競売の中止と返還、謝罪、来歴書類の開示を求めた。

サザビーズは前夜まで「予定どおり開催する」としていた。しかし高官級の協議が持たれた末、開催のわずか数時間前、「インド政府が提起した問題を踏まえ、出品者の同意のもとで」競売は延期された。ウェブサイトの出品ページは消え、下りるはずだった槌は宙に浮いたまま残された。

落札者のいない勝者

延期は、そのまま終幕へと向かった。2025年7月30日、334点の宝石は正式に、そして恒久的にインドへと返された。「127年もの歳月を経て、ブッダの聖なるピプラーワー遺宝が故郷に帰ってきた」——モディ首相はそう書き残している。

新たな所有者となったのは、インド屈指の同族系企業集団ゴドレジ・インダストリーズ・グループだった。取引の条件は公表されていないが、サザビーズの仲介で同グループが宝石を取得し、インド国内で一般に公開されることになった。引き渡しに立ち会ったのは、同グループ副会長のピロージシャ・ゴドレジ。文化大臣ガジェンドラ・シン・シェカワットは、これを「官民連携の模範例」と称えた。盗品としての立証が難しい来歴の品を、資力のある実業家が市場で買い取って国へ返す——それは文化財返還の、もう一つの現実的な形だった。

競売の世界では、槌が下りた瞬間に勝者が決まる。だがこの日、槌は下りなかった。落札者の名が読み上げられることは、ついになかった。それでも勝者がいたとすれば、それは値を競ったどの入札者でもなく、127年ぶりに遺宝を迎えたインドと、その背後にいる数えきれない仏教徒たちだったのだろう。

出典 SOURCES
  1. [1] BBC News「Sotheby's halts Buddha jewels auction after India threat」(2025年5月) — feeds.bbci.co.uk
  2. [2] CNN「Sotheby's postpones auction of jewels linked to the Buddha after India calls for their return」(2025年5月) — edition.cnn.com
  3. [3] THE VALUE「Buddhist gem relics return to India after Hong Kong auction halted」(2025年8月) — en.thevalue.com
  4. [4] インド文化省(PIB)公式発表「Sotheby's Hong Kong Postpones the Auction of Piprahwa Buddhist Relics」(2025年5月) — www.pib.gov.in