世界のオークションに流れ着いた品々の物語。
悲運の不落札

清朝の壺、ロンドン郊外の競売場で世界記録——だが買い手は代金を払わなかった

清朝乾隆期 洋彩透かし彫り双層瓶(ベインブリッジ・ヴァース)

予想は高く見積もっても120万ポンド。ところが2010年11月、ロンドン郊外の小さな競売場で、その清朝の壺に4,300万ポンド——いまのレートでおよそ92億円の槌が下りた。手数料と税を加えれば5,310万ポンド、約114億円。中国美術の世界記録だった。ただし、その金が出品者の手に渡るまでには、まだ2年以上の歳月が必要になる。

砕けた槌

2010年11月11日、ロンドン北西の郊外ウェスト・ルイスリップ。家財整理の競売を生業とする家族経営のベインブリッジズで、その日の目玉はロット800番だった。8は中国で縁起のいい数字とされる。出品されたのは清朝・乾隆期の洋彩の壺。外壁を透かし彫りにし、その隙間から内側の器が覗く二重構造で、魚の文様が描かれていた。高さ40センチほどの品である。

競売社の駐車場は、タイヤ店と老人ホームに挟まれた一角にあった。世界記録の舞台には、およそ見えない。だが満員の室内で、札は静かに、執拗に上がっていく。やがて数字は、誰も予想しなかった桁に入っていた。最後に4,300万ポンドで競りが止まり、競売人ピーター・ベインブリッジが槌を打ち下ろす。あまりの力に、槌の一部が砕けたと報じられている。落札したのは、中国人コレクターの代理として室内にいた入札者だった。

物置から出てきた皇帝の器

壺を持ち込んだのは、退職した元事務弁護士のトニー・ジョンソンと、その高齢の母だった。二人は2010年の初め、母の姉が遺した家財を相続し、ロンドン郊外ピナーのその家を片づけている最中に、この壺を見つけている。値打ちがあるかもしれない——そう感じて持ち込んだ先が、近所のベインブリッジズだった。

壺がいつ、どうやって英国に渡ったのかは、はっきりしない。鑑定した専門家は、乾隆期に景徳鎮で焼かれた本物と判断し、80万〜120万ポンドの評価額をつけた。一族が20世紀前半までに手に入れたらしいというが、競売社自身、英国にたどり着いた経緯は「永遠にわからないだろう」と述べている。英仏軍が円明園を略奪した1860年に中国を出たのではないか、と書いたメディアもあるが、裏づけはない。

鳴り止まない記録、届かない代金

記録は、報じられた瞬間から軋み始めた。落札者が、代金を払わなかったのである。伝えられるところでは、買い手はベインブリッジズの一律20%・約860万ポンドという手数料に難色を示した。落札額が上がるほど率が下がる仕組みではなかったことに、不満を抱いたという。競売社は買い手と守秘条項を結んだとされ、ピーター・ベインブリッジは取材に対し、不払いの事実も、一部の金が動いたかどうかも認めようとしなかった。

落札者の正体は、公式には最後まで明かされていない。一部の報道は中国の不動産富豪の名を挙げたが、当人は関与を否定した。確かなのは、世界記録という華やかな見出しの裏で、出品した母子が宙づりにされた、という一点だけだった。二人は2年以上、決着を待つことになる。

それから——半値で、ようやく

膠着が解けたのは2013年だった。大手競売社ボナムズが仲介に入り、別の買い手との私的な取引をまとめる。価格は公表されていないが、報道では2,000万〜2,500万ポンド前後——いまのレートで約43億〜54億円とされ、3年前の世界記録のおよそ半分にとどまった。それでもジョンソン母子は、ようやく代金を手にした。ある業界紙の編集者は、これが関係者全員にとって最善の決着だったと評している。

壺はその後、海外へ運び出され、現在の所在は公にされていない。なお、これとほぼ瓜二つの「双子」と呼べる壺が2018年にサザビーズ香港に現れ、しばしば混同されるが、ルイスリップの壺そのものとは別の個体である。一方でこの一件は、払われたか否かを問わず、中国帝室磁器をめぐる過熱の号砲になった。以後、欧米の競売各社は不払いを防ぐため、入札前の保証金を求めるようになっていく。

一律2割の手数料を惜しんだ買い手と、それを呑むしかなかった売り手。世界記録が生まれたあの夜、力余って砕けた競売人の槌は、ついに支払われることのない金額のために鳴っていた。

出典 SOURCES
  1. [1] RTE News(2010年11月12日・落札の一次報道) — www.rte.ie
  2. [2] Bloomberg(2013年1月14日・記録の半値で再売却) — www.bloomberg.com
  3. [3] Taipei Times(2013年1月16日・2年の宙づりとボナムズ仲介の私的売却) — www.taipeitimes.com
  4. [4] THE VALUE(2018年・来歴と顛末の詳報) — en.thevalue.com