「マクドナルド」ストラディヴァリ・ヴィオラ、4,500万ドルで売れず——10年後の結末
2014年、ひとつの楽器が「前代未聞」の値札を引っさげて市場に現れた。提示額は4,500万ドル超——いまのレートでおよそ72億円。封をした入札が6月に締め切られ、蓋が開けられた。だが、その額に手を伸ばす札は、一枚も入っていなかった。
いちばん地味な楽器が、いちばん高い値札をつけた
ヴィオラは、オーケストラでいちばん冗談のネタにされる楽器だ。「ヴァイオリンとの違いは? ヴィオラのほうがよく燃える」といった小噺が、楽団員のあいだには山ほどある。音域は中ほどで、独奏の檜舞台も少ない。その地味な一挺が、弦楽器売買の歴史で最も高い金額を提示されたのだ——というのが、この話の妙なところだ。
名は「マクドナルド」。アントニオ・ストラディヴァリが1719年ごろ、最も脂の乗った「黄金期」に作ったヴィオラである。保存状態は群を抜き、現存するストラディヴァリのヴィオラのなかでも最良とされる。
なぜ一挺のヴィオラに72億円なのか
ストラディヴァリが残した弦楽器のうち、ヴァイオリンは約600挺が今に伝わる。ところがヴィオラは、わずか10挺ほどしかない。もともと作られた数が桁違いに少なく、しかも円熟の「黄金期」のものとなると、そのなかでもごくわずかだ。2014年の時点で、個人の手に残るストラディヴァリのヴィオラは、これを含めて二挺だけだったとされる。
来歴も長い。名は19世紀の持ち主、第3代マクドナルド男爵にちなむ。以後、名工ヴュイヨームや英国の老舗商会の手を渡り、20世紀にはアマデウス弦楽四重奏団のヴィオラ奏者ピーター・シドロフが弾いた。1987年にシドロフが世を去ると、この名器は表舞台から姿を消す。再び売りに出るまでの27年間、その存在は知られていても、実物を見た者はほとんどいなかった。担当したティム・イングルスは、この一挺が帯びた「ほとんど神話めいた」評判をそう言い表している。
封をした入札、開けてみれば
売り手はシドロフの遺族。販売を任されたのは、サザビーズと、弦楽器を専門に扱うイングルス・アンド・ヘイデイだった。採られた方式は封印入札。競売場で値が競り上がっていくのではなく、買い手が金額を伏せて提示し、締切後にまとめて開封する。狙いは、従来の楽器市場の外側——美術品を集めるような新しい富裕層を呼び込むことにあった。マクドナルドはニューヨーク、香港、パリを巡回し、奏者がその音色を披露してまわった。
そして6月、入札は締め切られた。開けてみれば、4,500万ドルに届く札はない。イングルスは「関心は十分にあった」と語っている。沈黙というより、最後の一歩をためらう静けさだったのかもしれない。
折しも、その数日前にはクリスティーズが別のストラディヴァリのヴァイオリン「クロイツェル」(予想750万〜1,000万ドル)を出品し、これも買い手がつかずに終わっていた。最高級の弦楽器市場は天井に届いたのではないか——専門家のあいだに、そんな観測が広がった。
十年の沈黙のあとで
マクドナルドは、ふたたび倉の奥へ戻った。物語はそこで途切れる、はずだった。
2025年の暮れ、弦楽器専門のオークションハウス、タリシオが、このヴィオラを私的な売却でまとめたと発表する。買い手は、名器を一流の奏者に貸し出すベルリン拠点の非営利団体ストレットン協会。金額は公表されていないが、弦楽器として史上最高額だったと報じられている。同じ年に2,300万ドルで取引された1715年製のストラディヴァリ「バロン・クノープ」を、大きく上回る額だという。
そして肝心なのは、値段のほうではない。協会はこの一挺を、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席ヴィオラ奏者アミハイ・グロスに託した。倉のなかで何十年も口を閉じていた名器は、いま、世界屈指のオーケストラの只中で鳴っている。
2014年に市場が応えなかったのは、たぶん値付けにであって、楽器にではなかった。さんざんからかわれてきたヴィオラの王様は、最も高い値札をつけられた日には誰にも振り向かれず、その値札を外された日になって、ようやく弾き手のもとへ帰っていった。
- [1] The Strad「Rare 'Macdonald' Stradivarius viola fails to attract a buyer」(2014年6月) — www.thestrad.com
- [2] CNBC「$45 million for a viola? It's a Strad, but...」(2014年6月) — www.cnbc.com
- [3] The Strad「World record smashed: 'Macdonald' Stradivari viola sells for millions」(2026年) — www.thestrad.com